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真理を生きる。100%真理を生き切る魂たちのためのブログ

「覚醒」はそんなに簡単にできない

目覚めの意味として用いられている「覚醒」ですが、なんとなく今のスピ界隈で言われている覚醒は、意味がふわふわしすぎていて、私自身はなんとなく気持ち悪さを感じてしまいます。

 

目覚めるとは、色んなことに使われます。たとえば、

・オタクに目覚める

・釣りの面白さに目覚める

など、その分野に関しての狭かった見識が広く開けて、興味をそそられてのめり込んでいく様を表しています。

 

基本的にポジティブな意味で使われる言葉ですが、スピリチュアルな世界は一歩間違えると利己主義と妄想の中への逃避になります。この危うさを抱えたところに「覚醒」という言葉がくると、しかも安易に「覚醒した」などと言われてしまうと、余計にその意味を問いたくなるのは、多くの安定したマインドを持つ人々の自然な反応だと思います。

 

実際、そんなに甘くない

チベット密教には「帰依の集会樹の詞章」というものがあります。彼らが覚醒をどのように捉えているのか見てみましょう。

 

グルと三宝と自性菩提心
心の本性のマンダラに
覚醒の精髄を得るその日まで
深く帰依し奉ります

 

ちなみにこれを3回唱えたのちに五体投地を1回行う修行法があるくらいです。覚醒が極めて遠くに位置付けられており、そこに至るまでに途方もない努力と研鑽の必要が窺い知れます。

 

私もかれこれ10年以上真剣に修行していますが、本当の覚醒を体験したことは一度もありません。垣間見たことは何度もありますし、去年より今の方が成長している実感はあります。しかしそれを覚醒と呼ぶには抵抗があります。眠っていて一瞬夢から覚めても、それは起きたことにはならないのと同じです。布団から出て自由に動き回れるようになってはじめて、「目覚めた」と言えるのではないでしょうか。

 

修行に人生の全てを捧げている行者でさえこれなのですから、世俗で片手間に「覚醒した」あるいは「させる」ということがいかに不適当か、よくわかると思います。

 

なぜ「覚醒」と言いたがるのか

私も一人の平均的な人間ですので、そう言いたくなる気持ちもわかります。自分が人より進歩しており、より多くを見通していると表現するには、目に見えないスピリチュアルの世界で覚醒していると宣言する、もしくはあなたにもそれを授けようというのが早いからです。

 

なんでもそうですが、自分が今、あるいは振り返った特定の場面においてしようとしていることの動機を正確に、そして綿密に調べ上げることは役に立ちます。そして、そこに全ての答えがあるといってもいいかもしれません。というのも、そこに原因があるからです。

 

スピリチュアルに関心を持つ多くの人が、その理由はなんであれ劣等感を抱えている場合が多い(霊的理由からの劣等感もあり、通る道でもある)。そうした潜在的な欠乏感に応える形で「覚醒を手に入れましょう」というタイトルのビジネスが生まれるのではないか、私はそう考えます。

 

しかもここには、共鳴の法則が働いています。なぜなら、与える側にもお客さんと同じ劣等感を持っているからこそ、両者は引かれ合うからです。私個人のまだ十数年の比較的浅い経験ですが、あらゆる関係の形には、この共鳴の法則が働くように思います。

 

本当の覚醒とは

非常に単純明快です。真我に目覚めることです。それは具体的にこういうことだと思います。

・隣人を自分かそれ以上の存在であると本気で見るのが自然な状態。

・善をなすことが自然なことであり、悪を為すことなど想像さえできない状態。

・受け取ることでは何も感じず、与えることでのみ喜びを感じ、「もういつ死んでもいい」と思わず言ってしまうくらいの至福と充足の状態。

 

これは最終的な覚醒の段階(少なくとも肉体次元での)ですが、私たちのレベルでも、覚醒の瞬間というのはたくさんあります。それはどんなに小さくても、自分が神の愛の経路として働いた瞬間のことであり、また、これまで為してきた悪い習慣があったとしたら、それをやめようという気持ちが湧いてきて、それを選び取った時も、ある意味覚醒の瞬間と言えます。

 

私が長い間傾倒して学んだ『奇跡講座(A Course in Miracles)』ではこれを覚醒と呼ばずに「奇跡」と定義していましたが、それは正しいことだと思います。なぜなら、こうした覚醒への前進と覚醒そのものは、ゴールと、そこに至るまでの道のりをはっきり分けて考えることだからです。

 

覚醒とは、自我の消滅です。そして、進化の階段における踊り場の一つです。私たちは人間であり、一歩ずつ前進することの大事さとその感触を噛み締める喜びを感じられる感性を持っています。だから、せめてこのことに気づいている私たちは、毎日真理を実践できる機会を与えられたありがたさと、一歩でも前進できたと感じた時の喜びを、等身大で分かち合おうではありませんか。

 

実際、それで十分ではないでしょうか。愛の表現に大小も高低もありません。それは常に最大限かつ、最適に表現されるものです。神は愛であり、神は完璧だからです。