ダルマ100% !!

真理を生きる。100%真理を生き切る魂たちのためのブログ

ライトワーカーが魂の目的を思い出す方法と、その考え方

誰もが一度は、自分の生まれた理由について思いを巡らせます。言うなれば「使命」「天命」「魂の目的」を思い出したと確信するまでは、どこか気持ち悪い感覚がつきまといます。

 

たとえば犬が首輪に繋がれて、本来のからだの躍動感を発揮できていないような…あるいは虚しい感覚とでもいいましょうか、何か物足りない、生きている実感が薄い感覚を覚えます。

 

私もそうでした。その感覚は長い間自分の魂を焼き、身を焦がし、心の潤いを干上がらせてきました。ですがここでひとつの確信に行き着いたので、共有します。

 

目的は生きていく中で浮き彫りになっていく。

まずは事実確認からしましょう。多くの人が自分の魂の目的に同調しない人生を送っており、「本当の自分探し」をしているという事実です。これが意味するのは、思い出すこと自体が人生の目的の一つであるということです。実際、これが人生の目的の半分かもしれません。これは人生を本当に実りあるものにするための基礎づくりの段階とも言えるかもしれません。

 

全ての人がこのような意味で、人生の目的を果たしつつあります。これを読んでいるみなさんも、今まさに目的を順調にこなしつつあるという認識を持つことが大切だと思います。なぜなら、焦りは冷静さの欠如であり、落ち着いていなければ内観できないからです。

 

「私は今、自分のなすべきことを探している。本当は何なのかを知るために生きているんだ」

 

このように、しっかりと今を認めることが大切な第一歩になります。

 

目的、使命を見つけられるかどうかは別問題

誰もが探す道を歩んでいます。しかしながら、自分の使命、天命、魂の目的を見つけられる人、言い換えれば自分の人生に納得している人とそうでない人たちがいます。その違いは何なのでしょうか。

 

実際、それは自然には起こりません。自覚の有無はそれぞれですが、意図的に自分の魂と同調、整列する努力が必要になると私は思います。特に自分がライトワーカーとして100%、いや120%働きたいと願う魂であれば、その役割の大きさに比例して、目的の自覚にたどり着くまでの努力は大きなものになるように思われます。

 

また自覚するには、自覚したことを実行できるだけの能力、器を身につけておく必要があるようです。子供と大人ではその自覚の制限に差があるように、その差を埋めるには、意図的な学びとそれに基づいた経験の蓄積、そしてその経験からのフィードバックを適切に活かすハートと能力が求められます。

 

知ろうと具体的な努力をしていくしかなく、人生に体当たりしていくしか方法はないように思います。王国は力づくで手に入れるものです。何事も、努力なしで得られるものなんてありません。

 

目的を見つけられなくしているブロック

全てはカルマの法則に依存します。結果として現れているものには、全て原因があります。私たちが見ている世界や自分とは、 ”内的状況の外的映像” です。目に見えない部分を変えない限り、目に見えるものに変化はありません。”生きる具体的目的”という外的映像は、内界において魂と精神と肉体がきちんと整列していることによってのみ明らかになっていきます。

 

整列の定義は、肉体、分離感に基づいた低位我ではなく、魂(愛、統一、赦し)に基づいた高位我に基調を合わせて実生活を営むこと以上のことではありません。普段の私たちの思考や言葉や行動がどこに基調を合わせているのかを考えれば、それ自体がライトワーカーとしての目的を見出すのを妨げている壁になっていることは明らかです。

 

肉体2層と感情体に刻まれた波動の刻印の浄化も、並行して大切です。水は情報を記憶します。同じく諸体の大半が水の性質を持っている私たちは、物質的な記憶デバイスのようなものでもあります。情報の集積を”私”と呼んでいる事実からも、この情報のクリーニングを行うことが、実生活を浄化する上でも大切な位置を閉めています。

 

真のライトワーカーとして目覚める方法

一過性でも、単なる流行りでも、無知な人たちの趣向に合わせたサービスの提供者でもない真のライトワーカーになるための方法は、仏教やヨーガの世界のみならず、あらゆる宗教の中で、大衆の好奇の眼差しに触れない形でほぼ確立されています。

 

その方法の核心は、正しい真理の教えの徹底的なインプットと教えの実践にあります。結果として心と体は浄化されます。カルマが落ちることによって学びと理解が深まり、その器があると上から認められることの結果として、私たちの内側に自覚としてやってきます。

 

あらゆる神話が聖なる宝を手に入れるための大いなる旅を描いているように、目覚めのプロセスも往々にしてそのようになります。主人公は皆勇者であるように、私たちにも同様の勇気と奮闘が求められます。

 

私たちの誰もが、白馬の王子様や、突然空から女の子が降ってくるような幻想を抱きます。しかし聖なる波動を持つ大師たちの弟子として働くことを求めるならば、自分がそれに相応しい存在であることを、大師たちにわかってもらえるような地道な努力が必要です。

 

自分のためには何一つ求めることなく、ただ他者のために貢献したいという気持ちを少しづつ育てていくことが、真のライトワーカーには求められています。

 

現に考えてみてください。私たちが想像しうる限りの聖なる存在方が、わずかでも自分の利益を考えて振る舞うかどうかを。

 

私たちは、長い時間をかけて少しづつそこに近づいていかなければなりません。