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真理を生きる。100%真理を生き切る魂たちのためのブログ

ライトワーカーのための「波動論」

真理とその実践はいつもシンプルです。例えば僕のように複雑なことが苦手なタイプでも、このシンプルさのおかげで続けてこれた部分があります。真理の実践は幼い子供にもできることです。私たちのような大人になると、どうも複雑に考えたがっていけません。

 

数字の1を数えられない人はどこにもいません。うちの0歳児だって、最近人差し指を立てて何かを訴えてきます。あるいはまた、何か物音などに驚いた時は、すぐさま私にしがみついてきます。それはもちろん可愛いですが、私自身、何かあった時にすぐに素直に真理にしがみつけているだろうか、と自問します。

 

さて今回は、波動のお話です。モノや想念の持つ固有の振動数についてですが、今回は特に難しい人間関係と波動に関してお話しします。

 

よくこういうことが聞かれます。

「あの人とは波長が合わない」

「彼は波動が低い。付き合わない方がいいだろうか」

 

エネルギーというものに関心を持ち始めると、その領域に対して自然と敏感になっていきます。するとこれまであまり気にしてこなかったものが気になり始めるものですが、その一つが波動だと思います。そして、知識を持つということは少なからず責任を伴うことです。知識とは力だからです。

 

波動について学ぶことのリスク

現代は霊的な黎明期にあります。これまでの間、少数の人にのみ慎重に与えられてきた情報が、順序や体系を伴わない形で、不特定多数の人たちに対して無造作に見える形で与えられるようになりました。波動に関する情報もそのひとつと私は見ています。

 

けれども、私はそのことに少し危なっかしさを感じています。というのも、この現代の霊的動向を見ていますと、小さな子供にハンマーやノコギリを、保護者の見ていない場所で自由に使うことを許しているようなものだからです。実際、スピリチュアル関係において日々どこかであらゆるトラブルが生まれており、それを使ってあくどい商売をする人たちも少なくないと聞きます。道具を本来の目的のために使えていません。

 

波動に関する知識にも、危険な側面があります。目視できないエーテルやアストラルに関する知識の方が、物質次元に関する知識よりもより精妙であることは誰もが納得してくださることだと思います。しかしその目に見えない部分に関する知識や具体的能力の方が物質に比べて強力であり、かつ比例して多大な危険も伴うということを多くの人が認識できていません。

 

これを証明する事実がひとつあります。戦争とは力と力の衝突の最たるものですが、その要素の中で最も効力を発揮するのはなんでしょうか。それは武器の質や量、兵站、そして兵士や技術はもちろんなのですが、情報です。

 

世の中で最も権力を持つ存在とは、より多くの情報を掴んでいる人や集団のことです。会社でも、集団でも、どこにあっても、情報をより多く持っている人に力が集中し、そして多大な影響力を持つことがわかると思います。

 

スピリチュアルな情報に関しては、特にその本質的な力に気づいている人はほんの僅かです。そして波動の知識に関するリスクですが、その最たるものは、分断のリスクです。

 

人は何か有益な情報を得ると(そしてそれが自分と他者を見分ける道具として働く場合はなおさら)、それによって持つものと持たざる者を区別したがります。私は過去に自然農を仕事にしていたのでその例で言いますと、「私は肥料や農薬の恐ろしさを知っている、でもあの人たちは全く考えずに生きている…」とか。

 

これに関しては、確かに知っていることが力にはなります。しかしその知識という力が実際に使用者によってどのように扱われているのかが最も大切だということが、読者諸兄にもわかると思います。例えば私は法人のコンサルをしていますが、仕事上、会社のかなりディープな情報に触れる機会があります。私の仕事の成果はまさに、その最高に力のある情報をどのように扱って会社の力にしていけるかにかかっています。これを間違えたら大変なことになります。

 

私たちは分断のリスクをあまりにも軽んじているようです。特にスピリチュアルを学んでいる人で、これを強調している人にはまだお会いしたことがありません。波動という真理の一側面は、高いとか低いとかの相対性でしか未だ認識できないものですし、扱うこともできません。だからこそ、私たちのようなそれを認識し扱う存在が、それを人を区別する材料として使うことには、多大な危険があります。このことは、波動のみならずあらゆるスピリチュアルな学びをする際によく考えていただきたいことです。この世界で最もパワフルなのは、より精妙で霊的なエネルギーです。まだ核兵器の方が安全かもしれません。

 

このことについて、ぜひ一緒に深く瞑想して考えましょう。

 

識別と区別の違い

さて、これでやっと本題に入れます。

 

「あの人とは波長が合わない」

 

冒頭にこんなことを挙げましたが、このように感じたり思うこと自体は無害です。しかし2番目の

 

「彼は波動が低い。付き合わない方がいいだろうか」

 

これはもしかしたら、気づく人も多いかもしれません。実際このどこにOKとOUTの境界線があるのかを説明することはここでは困難ですが、後半は明らかに分断の想念となっています。ここには霊的利己主義が隠れています。霊は誰のことも区別しないし、全てを自分自身だと知っています

 

だからといって、全ての人と付き合えということじゃありません。ここでは縁と節度と表現するしかありませんが、不用意に自分の波動とはひどく離れている人と接することは、双方にとって傷にしかならないこともあります。そして実際、しばしばそのようになります。互いのコンフォートゾーンを互いに侵し合うことになるので、それがストレスを生じさせるからです。

 

波動が相対的に自分よりも高い相手と一緒にいることは、ひどい居心地の悪さを感じさせます。反対の場合、嫌悪感で相手を見ることになります。なのでバランスの取れたマインドで他者の波動の違いを感じ取ることは、双方を不必要な葛藤に巻き込まず保護する方向に役立てることができます。これは識別に該当します。これができる人は、”他人と適切な距離感を保てる人”として認知されています。

 

距離感を保つことと分離感は同じことのようにも思えます。確かにそのように距離という概念を活用している人が大多数とは思いますが、本来の識別は、その根底に愛ある配慮があります。

「俺は漁師だが、お前は木こりだ」

「私は大学生だが、彼は小学生だ」

そう思いながらも、互いが協調して活動することは十分にできます。そして事実、この世界には様々な波動が存在します。これらが互いに協調するからこそ世界はより良く前進していくし、そうなっていかなければならないと思います。

 

他方、波動を区別することは、必然的に相手と自分を分断するエネルギーとして働きます。識別も同様ですがこれはエネルギーであり、実在する影響力を持ちます。区別は心の中に分断の幻想を引き起こし、他方に対する無理解と嫌悪を生み出します。その時の心は完全にパーソナリティ(自我)に限定されており、自分を肉体の中に存在する小さな存在とみなすしかなくなります。それは私たちを幻想に引きずり込んで、結果的に孤立感と無力感、そして怒りと苦痛を生み出します。

 

霊は誰も区別しません。自分以外を識別することはしますが、”ひとつ”という普遍的真理にくっついた仮初の現象、大海に一瞬だけ現れる小さな波しぶき程度にしか見ません。これが彼個人を軽んじていることにはなりません。なぜなら、彼は本来真我という大海であり、それ以外に彼についての正しい理解はないからです。

 

人間関係における具体例

以上を踏まえて、それぞれのパターンにおいての基本的なハウツーをお話しします。

 

・自分よりも波動の高い人に出会った場合

自分より高波動の人に出会った場合、一般的には嫌悪感として体感します。相対的に低い自分の波動が彼に出会うことで幾らかでも不安定になるため、それ自体がストレスになります。嫌悪感は相手に向かうこともあれば、自分い対して向けられる場合もあります。

 

より正直で向上心のある人の場合、その波動に彼の波動が共鳴するため、尊敬と親しみを覚えます。基礎にあるのはこういったことですが、その人の肉体に刻まれた波動の刻印とマインドというフィルターを通過した後、どのように感じられるかは実に様々としか言いようがありません。

 

いずれの場合においても、彼と葛藤することは避けられません。自分が波動を上げるか、距離をとるかのどちらかになります。波動を上げる場合、自分自身から削ぎ落とすものがたくさんあります。人は新しく得ることよりも、なんであれ手放すことの方に抵抗を感じます。

 

どちらを選択するかは、自分の希望はもちろん、彼との関係性によります。

 

・自分より低い波動の人に出会った場合

上に同じく、やはり嫌悪感として感じられます。違うのは、彼のようになりたいとは思わないところです。ここでライトワーカーとしての資質が問われています。というのも、ライトワーカーの仕事は地上に光をもたらすことだからです。偉大な大師たちは、常に自分よりも低い波動に対して働きかけています。エネルギーは常に、高いところから低いところへ向かう性質があることを覚えておくと、役に立ちます。

 

流れるではなく、向かうと表現したことに大きな意味があります。ぜひそのニュアンスを感じ取ってください。

 

スピリチュアルを学ぶ人たちは、自分よりも高い存在との関係にしか関心を抱かない傾向があります。しかし光は、水と同じように、常により低いところに自らの経路を探し求めているものです。そして私たちは光なのですから、どうして自分よりも低いところに関心を持たなくて良いことがあるでしょうか。全ては、持つものから持たざるものへ運ばれていきます。これは、人がより低い神の生命表現である自然に対してどのように振る舞ったら良いかの核心でもあります。

 

この道理を知らずに、自らを真のライトワーカーとして名乗ることは許されませんし、偉大な戦士の名簿に記名されることもありません。これは仕事なのです。もし職場で自らの役割を理解せずにいる人がいたら、彼が本社から評価されることも名前を知られることもありませんよね。

 

当然ながら、自分よりも波動が低いと感じた人とは、距離を保ったままの方が全体としてうまくいく場合があることを考える必要があります。しかし全体として関わった方が良い、もしくは関わるべきと判断した場合は、優しく光を注ぎ入れてあげてください。(常に全体を考えることにも秘められた教えが含まれています)

 

”光を注ぎ入れる”という意味は、エネルギーを与えるということです。そしてエネルギーとは何かという部分については、リスクについて述べたところの繰り返しになります。つまり、光にはいろいろな表現方法があるが、最も強力なのはより精妙で目に見えない表現であるということです。

 

これをただ祈るだけと勘違いすることは避けてください。もちろん祈ることしかできないこともあります。偉大なチベット密教の聖者の一人であるミラレパは、各地の洞窟を転々としながら、瞑想と祈りによって世界に貢献しました。祈ることがその人の仕事、という場合もあります。

 

しかし日本に生まれるというカルマを持っている私たちの場合、多くの人が肉体次元での実際の奉仕活動が必要です。祈ることと、実際に行動することは私たちの場合は不可分だと考えておいた方がいいでしょう。