ダルマ100% !!

真理を生きる。100%真理を生き切る魂たちのためのブログ

ライトワーカーが魂の目的を思い出す方法と、その考え方

誰もが一度は、自分の生まれた理由について思いを巡らせます。言うなれば「使命」「天命」「魂の目的」を思い出したと確信するまでは、どこか気持ち悪い感覚がつきまといます。

 

たとえば犬が首輪に繋がれて、本来のからだの躍動感を発揮できていないような…あるいは虚しい感覚とでもいいましょうか、何か物足りない、生きている実感が薄い感覚を覚えます。

 

私もそうでした。その感覚は長い間自分の魂を焼き、身を焦がし、心の潤いを干上がらせてきました。ですがここでひとつの確信に行き着いたので、共有します。

 

目的は生きていく中で浮き彫りになっていく。

まずは事実確認からしましょう。多くの人が自分の魂の目的に同調しない人生を送っており、「本当の自分探し」をしているという事実です。これが意味するのは、思い出すこと自体が人生の目的の一つであるということです。実際、これが人生の目的の半分かもしれません。これは人生を本当に実りあるものにするための基礎づくりの段階とも言えるかもしれません。

 

全ての人がこのような意味で、人生の目的を果たしつつあります。これを読んでいるみなさんも、今まさに目的を順調にこなしつつあるという認識を持つことが大切だと思います。なぜなら、焦りは冷静さの欠如であり、落ち着いていなければ内観できないからです。

 

「私は今、自分のなすべきことを探している。本当は何なのかを知るために生きているんだ」

 

このように、しっかりと今を認めることが大切な第一歩になります。

 

目的、使命を見つけられるかどうかは別問題

誰もが探す道を歩んでいます。しかしながら、自分の使命、天命、魂の目的を見つけられる人、言い換えれば自分の人生に納得している人とそうでない人たちがいます。その違いは何なのでしょうか。

 

実際、それは自然には起こりません。自覚の有無はそれぞれですが、意図的に自分の魂と同調、整列する努力が必要になると私は思います。特に自分がライトワーカーとして100%、いや120%働きたいと願う魂であれば、その役割の大きさに比例して、目的の自覚にたどり着くまでの努力は大きなものになるように思われます。

 

また自覚するには、自覚したことを実行できるだけの能力、器を身につけておく必要があるようです。子供と大人ではその自覚の制限に差があるように、その差を埋めるには、意図的な学びとそれに基づいた経験の蓄積、そしてその経験からのフィードバックを適切に活かすハートと能力が求められます。

 

知ろうと具体的な努力をしていくしかなく、人生に体当たりしていくしか方法はないように思います。王国は力づくで手に入れるものです。何事も、努力なしで得られるものなんてありません。

 

目的を見つけられなくしているブロック

全てはカルマの法則に依存します。結果として現れているものには、全て原因があります。私たちが見ている世界や自分とは、 ”内的状況の外的映像” です。目に見えない部分を変えない限り、目に見えるものに変化はありません。”生きる具体的目的”という外的映像は、内界において魂と精神と肉体がきちんと整列していることによってのみ明らかになっていきます。

 

整列の定義は、肉体、分離感に基づいた低位我ではなく、魂(愛、統一、赦し)に基づいた高位我に基調を合わせて実生活を営むこと以上のことではありません。普段の私たちの思考や言葉や行動がどこに基調を合わせているのかを考えれば、それ自体がライトワーカーとしての目的を見出すのを妨げている壁になっていることは明らかです。

 

肉体2層と感情体に刻まれた波動の刻印の浄化も、並行して大切です。水は情報を記憶します。同じく諸体の大半が水の性質を持っている私たちは、物質的な記憶デバイスのようなものでもあります。情報の集積を”私”と呼んでいる事実からも、この情報のクリーニングを行うことが、実生活を浄化する上でも大切な位置を閉めています。

 

真のライトワーカーとして目覚める方法

一過性でも、単なる流行りでも、無知な人たちの趣向に合わせたサービスの提供者でもない真のライトワーカーになるための方法は、仏教やヨーガの世界のみならず、あらゆる宗教の中で、大衆の好奇の眼差しに触れない形でほぼ確立されています。

 

その方法の核心は、正しい真理の教えの徹底的なインプットと教えの実践にあります。結果として心と体は浄化されます。カルマが落ちることによって学びと理解が深まり、その器があると上から認められることの結果として、私たちの内側に自覚としてやってきます。

 

あらゆる神話が聖なる宝を手に入れるための大いなる旅を描いているように、目覚めのプロセスも往々にしてそのようになります。主人公は皆勇者であるように、私たちにも同様の勇気と奮闘が求められます。

 

私たちの誰もが、白馬の王子様や、突然空から女の子が降ってくるような幻想を抱きます。しかし聖なる波動を持つ大師たちの弟子として働くことを求めるならば、自分がそれに相応しい存在であることを、大師たちにわかってもらえるような地道な努力が必要です。

 

自分のためには何一つ求めることなく、ただ他者のために貢献したいという気持ちを少しづつ育てていくことが、真のライトワーカーには求められています。

 

現に考えてみてください。私たちが想像しうる限りの聖なる存在方が、わずかでも自分の利益を考えて振る舞うかどうかを。

 

私たちは、長い時間をかけて少しづつそこに近づいていかなければなりません。

ライトワーカーの基本原則とチャクラの関係

なんだかライトワーカー関連の記事が続いています。実は、これを書いているのはどうやら自分ではない感覚があります。けれども実際書いているのは私ですし、自分のアイディアとして湧いてくるものをきちんとチェックし、修正し、より整えられ配慮ある形でみなさんにお伝えする責任は私にあります。

 

感じ方としては確かに普通と違う、チャネリングっぽい感じはあります。ただ、誰であれ何かしらの波長に同調して自己表現しているわけですから、全ての存在がある意味チャネラーであり、サイキックであり、目に見えないモノの体現者であるのだと私は思うのです。

 

前記事で私は、ライトワーカーという言葉に付着した「誰でも簡単お手軽、やろうと思ったその日から♪ あなたらしく働ける♪」のような印象を拭いきれずにいることに少し触れました。こういう文句やニュアンスを、もし自分が求人サイトで見たら…「怪しいな〜なんか裏があるな」と思うんですきっと。これが悲しかな、スピリチュアル界隈では頻繁に見られますし、疑問を投げかける人もあまりおられないようなイメージがあります。最も、気づく人はその場から立ち去っていくからなのでしょうが……

 

私はここに2つの損失があると感じています。わかりやすく並べます。

 

1.ライトワークへの誤解が、当事者たちの時間を無駄にしていること。

たとえば草野球を野球と勘違いして、本来プロを目指せる人やファンの世界観を限定してしまっているという感じです。本質的な重要性と意義について混乱し、主観的な世界に浸ることによって、ご本人とそこに関わる人たちの肉体、マインド、そして時間という資源、機会を十分に生かしきれていないということがあります。

 

プロ野球なら頭部へのデッドボールは文字通り死につながる一方、草野球ならまだ安心^^ということもありますが…河川敷でのデイゲームを「これが野球のすべてである」と思っていると、その損失は全体にとって計り知れないものがあります。

 

・本来高い次元にあるはずの魂が、参入するタイミングを失うこと。

全てはなるようになる、という考えは一度わきに置かせていただきますね。

より真理に近く、つまりより正当かつ上質なものを目指す、これが人間の仕事です。誰でも低品質を好む人はいません。ほんとうに霊的に生きるということは、まるで会社が行う経営努力に匹敵する、むしろそれ以上の具体的かつ現実的努力が必要なものです。

 

自覚の有無は別として、霊的に生きることを実際うまく体現しているのは、世の中で成果を出している人たちです。その人たちは自分の仕事に魂を注ぎ込み、そのエネルギーがあらゆる部分に正確に反映されるよう、常に最新の注意を払い、結果にこだわります。そのためには自分の持つあらゆるものを犠牲にする覚悟を持ちますし、いつも自分に厳しいという特質を持ちます。

 

物質次元での活動を下に見てその上に立とうとするスピリチュアリストは、進化は下から上に向かって起こることと、より高い進歩段階は、それ以下の段階のものを含んでいるということ考えなければなりません。例えば大人は子供よりも進歩した存在ですが、それは子供である自分を抱えていく形で進化発展していくものです。物質次元での活動とその手法に敬意を払わずに、より高次元の活動を行うことはできません。

 

何も現実の領域で成功してからでないと高次の仕事に着手できない、というわけではないと思いますが、それに対する敬意を欠いてはならないのは確かだと思われます。だって、いくら高次だとか言っても、肉体のある間は衣食住は必須ですし、いろいろな社会インフラや企業の現実的サービスの助けを借りて活動するわけです。よく考えれば、当前のことです。

 

魂のレベルが高い人たちは、無意識でこのことをわかっています。だから、安易なニュアンスでライトワークについて発信してしまうと、本来その魂が目覚めるタイミングを逃してしまいます。「スピリチュアルって、なんかあれだよね」というイメージが実際に日本人の潜在意識にどれほど深く刷り込まれているのかを考えたら、これからライトワーカーとして働くと決意した私たちの考えや行いの責任と課題が、よりはっきりするのではないでしょうか。

 

働こう、それがあなたの使命なのだから。

人体の七つのセンターがそれぞれに持つ役割と性質を学ぶことで、肉体がそのまま、私たち人間という存在がどのように活動すべきかについての青写真となっていることがわかります。センターについてはまだわかっていないことの方が大半だとは思いますが、しかし主要な七つのセンターについては現代でもはっきりと認識されつつあります。

 

より高度な情報を得ることよりもまず、太古から東洋で洗練され、現代では西洋でもその価値が認められるようになったセンターの基本的な体験的事実から確認していきましょう。

 

今すぐに体感できるワークをしてみましょう。祈る時のように合掌してみてください。その手はどこにありますか?おそらく胸のセンターの前あたりになるのが一般的で自然なことだと思います。祈りは高まるほどに、その手は頭頂部へ向かいます。

 

しかしその合掌の手は、横隔膜の下のチャクラには届きません。(手を逆さまにしちゃダメですよ!笑)、大洋神経叢のマニプラにはギリギリ届きますが、その時の体と心の様子を感じてみてください。マニプラ以下では祈れないというのが私の感想ですが、みなさんはいかがでしょうか。祈り際して、合掌はハートよりも上に位置するものです。

 

これは私が秘教から得た知識ですが、横隔膜を境にして、上と下のチャクラには明確な違いがあります。霊的に生きるということは、常日頃から高次、つまり神性を表現することで、手を合わせることによって表現、象徴されます。これは横隔膜から上、つまりアナハタ(胸)、ヴィシュッダ(喉)、アジュナ(眉間)、サハスラーラ(百会)を活性化させて生きるということです。横隔膜から下は、手を合わせないで生きる、つまり霊性にはまだ触れる必要にない人たちや動物の生き方になります。(それでさえ、神性の段階的表現ではあります。私はそういった表現に対して愛をもって書いています)

 

私自身も目指している理想的なライトワーカーとしての生き方は、

 

上の次元(横隔膜から上)に対しては同調し学び、下の次元に対しては働きかける。

 

ということになるのではないでしょうか。より高い基調に合わせる形で下を機能させる、言い換えれば、より高度な次元で調和を実現させることこそが、ライトワーカーの仕事になると、今の所思っています。なのでライトワーカーは、どんな業界にもおられるわけですし、またそこに神の子がいる限り必要だと思うのです。

 

これはカルマヨーガそのものであると、お気づきの方もいらっしゃるかもしれません。おそらく、まさにその通りです!自分のカルマに正面から向き合いながら、その中で自身の与えられた神聖さを発揮する生き方をする。するとその人は神の意志の通りに、神の完璧な台本を演じている役者になれるのです。

 

ライトワーカーとは、幸せな神の道具であり、その有り余る幸せを与えるという更なる幸せの権利を思い出した人たちであるに過ぎないと、私は日頃から感じています。ここには、妥協のない不二一元論とエネルギーの微妙な関連性が発見できます。

 

 

最後にご連絡ですが、私のこのライトワークはブログとポッドキャストから始まりました。まだ初めてまもないですが、オンラインでの無料相談を始めようと考えています。もともと心理カウンセリングをしているのもあって、いずれ対価をいただく形にしますが、今の所、こういった内容に興味関心をもっている人とのコミュニケーションを大事にしたい、という理由があります。

 

これらは準備でき次第、告知させていただきたいと思います。

ソウルメイトについて考える

とっても魅力的ですよね、ソウルメイト。

 

運命の人、魂レベルで結びついた自分の片割れのような存在。

 

想像しただけでとろけそうになり、なんとなく、「ああ、自分のこの物足りなさはそのパートナーに出会えてないからなんだ」と考えてしまいます。

 

ソウルメイトの他にも、ツインレイ、ツインソウル、正直その辺りの細かい定義は分かりませんが、どこか似たニュアンスを感じます。

 

確かにソウルメイトはいます。本当にそういう人はいます。そういう人に出会うと、もう他には何も要らないとさえ思う瞬間があります。いろんなところでピタリと呼吸が合い、まるで一心同体のようになります。これは私自身の体験で、2回経験しています。

 

ですが、その人とは今は一緒に居ませんし、別れ方も綺麗ではありませんでした。「それは本当のツインソウルではない」と言われてしまえばそれまでなのですが、”驚くほどピッタリくる異性のお相手”をここではツインソウルと考えて、自分の考えをまとめていきたいと思います。

 

ソウルメイトという概念自体に意味はない

そもそも論になりますが、ソウルメイトとは、数いる他人の中で自分と特別に縁の深い他人のうちの一人と言い換えることができます。”特別のさらに特別な人”とでも言えましょうか。つまり、他人の中でも自己にとっての重要度がとりわけ高い存在ということだと思います。

 

この時点で、ソウルメイトという概念に意味を感じる人と感じない人に分かれるはずです。というのも、ソウルメイトという概念は、世界の中には自分にとって重要度の異なるものが存在するという、一種の分離感に基づいた概念だからです。

 

この分離感に基づいた見方は一般的ですが、真理の実践を求める人々にとって他人のうちで区別を設けることは、愛の実践の逆さまになります。博愛とは誰も区別しないことです。そして神は博愛そのものですから、神の意識に到達したいと思うのであれば、どちらの態度をとるのかは自然と決まってきます。

 

だからといって、神の博愛を表現するといっても、全ての人に機械的に同じ振る舞いをするということではありません。子供、配偶者、ご近所、会社のお客さんや上司、あるいは部下に対して、それぞれに適切な振る舞いの方法をとった上で、その形の背後にある気持ちは一様に愛であるように努める、という意味になります。

 

ソウルメイトを考えている時の心を観察してみる

私を含めて誰でも、自分にとっての特別な存在を求めている心の部分があります。そうした心について一緒に観察してみることから、ソウルメイトという考えについてみてみましょう。平均的な人類の一人との自覚のある私の場合、こんな状態が生まれてきました。順番にみていきたいと思います。

 

1 それを見つけ出せば自分は幸せになれるかもしれないという期待感

2 掻き立てられる自身の欠落感

3 目の前の現実に手がつかなくなる感覚

 

主要な三つの感覚が生じましたが、これだけでも、もう一度ソウルメイトを考えることが躊躇われるほどです(笑)

まず1番、そんなことないですよね。幸せは自己表現の結果です。

2番、これもネガティブな結果しか生みません。

3番、もはや論外です。

 

あらためて自分の想念を観察してみましたが、もう2度とこれについては考えたくありません笑

 

確かにそういうドンピシャなお相手というのはいるのですが、出会う前にそのことについて考えることが無意味であることは今確認した通りですし、出会った後に自分たちの絆を確認する方法としても、あまり良くはないと思います。なぜなら、特別感を強調することは、真のバランス感覚を備えたパーソナリティにはなれないからです。

 

そもそも、ここ(地球)に来ている目的は何なのか?

横道にそれたがるエゴをコントロールするには、「そもそも論」が有効です。私もよく道に迷い出したと感じた時には、「(深い意味で)これはそもそも何のためにやっているんだ?」と自問するようにしています。

 

どのような宗教でも、あるいは道徳や”道”と呼ばれるそれぞれの分野においてさえも、人間が己の生活を極限まで高めようとした時に自然とどのような方向を目指すのか。

それは自分よりも遥かに壮大な”大いなるもの”と一体になるよう、それを妨げている心の働きを制御することではないでしょうか。

ここに、”そもそもの魂の目的と方向性”が見えてきます。

 

私たちは大いなる本源、すなわち普遍意識、神、大宇宙の意識に戻ろうとしており、それを妨げている自我という夾雑物を越える努力をしています。これを言い換えれば、人生とは努力であり、浄化であり、成長、進化ということができます。

 

キリスト教的に言えば信仰心を最高度まで高めることだろうし、仏教徒であれば煩悩の殲滅と表現するかもしれません。人の数だけ色々な表現があると思いますが、人類の目的地は完全に同じところにあるからこそ、今世界は一つになろうとあらゆる努力が行われています。

 

まとめ

ちょっと話が壮大になりましたが、これは自然なことです。私たちの存在そのものが壮大であり、神のごとく普遍的なものだからです。

そんな私たちが、果たして個人という仮の姿のために神性という本性を犠牲にして良いものでしょうか。

ツインソウルとは、確かにそう呼ぶにふさわしい関係はあって、それ自体は素晴らしいものです。ですがそこにこだわることでかえって全てを失うことは、めいいっぱい強調してもいいかもしれません。

 

ここはダルマ100%。決してブレません。どんなに愛しい魂の片割れであったとしても、神の意志を行う道具として生きるのであれば、涙しながらもその人から離れなければならないこともあります。

ライトワーカーのための「波動論」

真理とその実践はいつもシンプルです。例えば僕のように複雑なことが苦手なタイプでも、このシンプルさのおかげで続けてこれた部分があります。真理の実践は幼い子供にもできることです。私たちのような大人になると、どうも複雑に考えたがっていけません。

 

数字の1を数えられない人はどこにもいません。うちの0歳児だって、最近人差し指を立てて何かを訴えてきます。あるいはまた、何か物音などに驚いた時は、すぐさま私にしがみついてきます。それはもちろん可愛いですが、私自身、何かあった時にすぐに素直に真理にしがみつけているだろうか、と自問します。

 

さて今回は、波動のお話です。モノや想念の持つ固有の振動数についてですが、今回は特に難しい人間関係と波動に関してお話しします。

 

よくこういうことが聞かれます。

「あの人とは波長が合わない」

「彼は波動が低い。付き合わない方がいいだろうか」

 

エネルギーというものに関心を持ち始めると、その領域に対して自然と敏感になっていきます。するとこれまであまり気にしてこなかったものが気になり始めるものですが、その一つが波動だと思います。そして、知識を持つということは少なからず責任を伴うことです。知識とは力だからです。

 

波動について学ぶことのリスク

現代は霊的な黎明期にあります。これまでの間、少数の人にのみ慎重に与えられてきた情報が、順序や体系を伴わない形で、不特定多数の人たちに対して無造作に見える形で与えられるようになりました。波動に関する情報もそのひとつと私は見ています。

 

けれども、私はそのことに少し危なっかしさを感じています。というのも、この現代の霊的動向を見ていますと、小さな子供にハンマーやノコギリを、保護者の見ていない場所で自由に使うことを許しているようなものだからです。実際、スピリチュアル関係において日々どこかであらゆるトラブルが生まれており、それを使ってあくどい商売をする人たちも少なくないと聞きます。道具を本来の目的のために使えていません。

 

波動に関する知識にも、危険な側面があります。目視できないエーテルやアストラルに関する知識の方が、物質次元に関する知識よりもより精妙であることは誰もが納得してくださることだと思います。しかしその目に見えない部分に関する知識や具体的能力の方が物質に比べて強力であり、かつ比例して多大な危険も伴うということを多くの人が認識できていません。

 

これを証明する事実がひとつあります。戦争とは力と力の衝突の最たるものですが、その要素の中で最も効力を発揮するのはなんでしょうか。それは武器の質や量、兵站、そして兵士や技術はもちろんなのですが、情報です。

 

世の中で最も権力を持つ存在とは、より多くの情報を掴んでいる人や集団のことです。会社でも、集団でも、どこにあっても、情報をより多く持っている人に力が集中し、そして多大な影響力を持つことがわかると思います。

 

スピリチュアルな情報に関しては、特にその本質的な力に気づいている人はほんの僅かです。そして波動の知識に関するリスクですが、その最たるものは、分断のリスクです。

 

人は何か有益な情報を得ると(そしてそれが自分と他者を見分ける道具として働く場合はなおさら)、それによって持つものと持たざる者を区別したがります。私は過去に自然農を仕事にしていたのでその例で言いますと、「私は肥料や農薬の恐ろしさを知っている、でもあの人たちは全く考えずに生きている…」とか。

 

これに関しては、確かに知っていることが力にはなります。しかしその知識という力が実際に使用者によってどのように扱われているのかが最も大切だということが、読者諸兄にもわかると思います。例えば私は法人のコンサルをしていますが、仕事上、会社のかなりディープな情報に触れる機会があります。私の仕事の成果はまさに、その最高に力のある情報をどのように扱って会社の力にしていけるかにかかっています。これを間違えたら大変なことになります。

 

私たちは分断のリスクをあまりにも軽んじているようです。特にスピリチュアルを学んでいる人で、これを強調している人にはまだお会いしたことがありません。波動という真理の一側面は、高いとか低いとかの相対性でしか未だ認識できないものですし、扱うこともできません。だからこそ、私たちのようなそれを認識し扱う存在が、それを人を区別する材料として使うことには、多大な危険があります。このことは、波動のみならずあらゆるスピリチュアルな学びをする際によく考えていただきたいことです。この世界で最もパワフルなのは、より精妙で霊的なエネルギーです。まだ核兵器の方が安全かもしれません。

 

このことについて、ぜひ一緒に深く瞑想して考えましょう。

 

識別と区別の違い

さて、これでやっと本題に入れます。

 

「あの人とは波長が合わない」

 

冒頭にこんなことを挙げましたが、このように感じたり思うこと自体は無害です。しかし2番目の

 

「彼は波動が低い。付き合わない方がいいだろうか」

 

これはもしかしたら、気づく人も多いかもしれません。実際このどこにOKとOUTの境界線があるのかを説明することはここでは困難ですが、後半は明らかに分断の想念となっています。ここには霊的利己主義が隠れています。霊は誰のことも区別しないし、全てを自分自身だと知っています

 

だからといって、全ての人と付き合えということじゃありません。ここでは縁と節度と表現するしかありませんが、不用意に自分の波動とはひどく離れている人と接することは、双方にとって傷にしかならないこともあります。そして実際、しばしばそのようになります。互いのコンフォートゾーンを互いに侵し合うことになるので、それがストレスを生じさせるからです。

 

波動が相対的に自分よりも高い相手と一緒にいることは、ひどい居心地の悪さを感じさせます。反対の場合、嫌悪感で相手を見ることになります。なのでバランスの取れたマインドで他者の波動の違いを感じ取ることは、双方を不必要な葛藤に巻き込まず保護する方向に役立てることができます。これは識別に該当します。これができる人は、”他人と適切な距離感を保てる人”として認知されています。

 

距離感を保つことと分離感は同じことのようにも思えます。確かにそのように距離という概念を活用している人が大多数とは思いますが、本来の識別は、その根底に愛ある配慮があります。

「俺は漁師だが、お前は木こりだ」

「私は大学生だが、彼は小学生だ」

そう思いながらも、互いが協調して活動することは十分にできます。そして事実、この世界には様々な波動が存在します。これらが互いに協調するからこそ世界はより良く前進していくし、そうなっていかなければならないと思います。

 

他方、波動を区別することは、必然的に相手と自分を分断するエネルギーとして働きます。識別も同様ですがこれはエネルギーであり、実在する影響力を持ちます。区別は心の中に分断の幻想を引き起こし、他方に対する無理解と嫌悪を生み出します。その時の心は完全にパーソナリティ(自我)に限定されており、自分を肉体の中に存在する小さな存在とみなすしかなくなります。それは私たちを幻想に引きずり込んで、結果的に孤立感と無力感、そして怒りと苦痛を生み出します。

 

霊は誰も区別しません。自分以外を識別することはしますが、”ひとつ”という普遍的真理にくっついた仮初の現象、大海に一瞬だけ現れる小さな波しぶき程度にしか見ません。これが彼個人を軽んじていることにはなりません。なぜなら、彼は本来真我という大海であり、それ以外に彼についての正しい理解はないからです。

 

人間関係における具体例

以上を踏まえて、それぞれのパターンにおいての基本的なハウツーをお話しします。

 

・自分よりも波動の高い人に出会った場合

自分より高波動の人に出会った場合、一般的には嫌悪感として体感します。相対的に低い自分の波動が彼に出会うことで幾らかでも不安定になるため、それ自体がストレスになります。嫌悪感は相手に向かうこともあれば、自分い対して向けられる場合もあります。

 

より正直で向上心のある人の場合、その波動に彼の波動が共鳴するため、尊敬と親しみを覚えます。基礎にあるのはこういったことですが、その人の肉体に刻まれた波動の刻印とマインドというフィルターを通過した後、どのように感じられるかは実に様々としか言いようがありません。

 

いずれの場合においても、彼と葛藤することは避けられません。自分が波動を上げるか、距離をとるかのどちらかになります。波動を上げる場合、自分自身から削ぎ落とすものがたくさんあります。人は新しく得ることよりも、なんであれ手放すことの方に抵抗を感じます。

 

どちらを選択するかは、自分の希望はもちろん、彼との関係性によります。

 

・自分より低い波動の人に出会った場合

上に同じく、やはり嫌悪感として感じられます。違うのは、彼のようになりたいとは思わないところです。ここでライトワーカーとしての資質が問われています。というのも、ライトワーカーの仕事は地上に光をもたらすことだからです。偉大な大師たちは、常に自分よりも低い波動に対して働きかけています。エネルギーは常に、高いところから低いところへ向かう性質があることを覚えておくと、役に立ちます。

 

流れるではなく、向かうと表現したことに大きな意味があります。ぜひそのニュアンスを感じ取ってください。

 

スピリチュアルを学ぶ人たちは、自分よりも高い存在との関係にしか関心を抱かない傾向があります。しかし光は、水と同じように、常により低いところに自らの経路を探し求めているものです。そして私たちは光なのですから、どうして自分よりも低いところに関心を持たなくて良いことがあるでしょうか。全ては、持つものから持たざるものへ運ばれていきます。これは、人がより低い神の生命表現である自然に対してどのように振る舞ったら良いかの核心でもあります。

 

この道理を知らずに、自らを真のライトワーカーとして名乗ることは許されませんし、偉大な戦士の名簿に記名されることもありません。これは仕事なのです。もし職場で自らの役割を理解せずにいる人がいたら、彼が本社から評価されることも名前を知られることもありませんよね。

 

当然ながら、自分よりも波動が低いと感じた人とは、距離を保ったままの方が全体としてうまくいく場合があることを考える必要があります。しかし全体として関わった方が良い、もしくは関わるべきと判断した場合は、優しく光を注ぎ入れてあげてください。(常に全体を考えることにも秘められた教えが含まれています)

 

”光を注ぎ入れる”という意味は、エネルギーを与えるということです。そしてエネルギーとは何かという部分については、リスクについて述べたところの繰り返しになります。つまり、光にはいろいろな表現方法があるが、最も強力なのはより精妙で目に見えない表現であるということです。

 

これをただ祈るだけと勘違いすることは避けてください。もちろん祈ることしかできないこともあります。偉大なチベット密教の聖者の一人であるミラレパは、各地の洞窟を転々としながら、瞑想と祈りによって世界に貢献しました。祈ることがその人の仕事、という場合もあります。

 

しかし日本に生まれるというカルマを持っている私たちの場合、多くの人が肉体次元での実際の奉仕活動が必要です。祈ることと、実際に行動することは私たちの場合は不可分だと考えておいた方がいいでしょう。

「覚醒」はそんなに簡単にできない

目覚めの意味として用いられている「覚醒」ですが、なんとなく今のスピ界隈で言われている覚醒は、意味がふわふわしすぎていて、私自身はなんとなく気持ち悪さを感じてしまいます。

 

目覚めるとは、色んなことに使われます。たとえば、

・オタクに目覚める

・釣りの面白さに目覚める

など、その分野に関しての狭かった見識が広く開けて、興味をそそられてのめり込んでいく様を表しています。

 

基本的にポジティブな意味で使われる言葉ですが、スピリチュアルな世界は一歩間違えると利己主義と妄想の中への逃避になります。この危うさを抱えたところに「覚醒」という言葉がくると、しかも安易に「覚醒した」などと言われてしまうと、余計にその意味を問いたくなるのは、多くの安定したマインドを持つ人々の自然な反応だと思います。

 

実際、そんなに甘くない

チベット密教には「帰依の集会樹の詞章」というものがあります。彼らが覚醒をどのように捉えているのか見てみましょう。

 

グルと三宝と自性菩提心
心の本性のマンダラに
覚醒の精髄を得るその日まで
深く帰依し奉ります

 

ちなみにこれを3回唱えたのちに五体投地を1回行う修行法があるくらいです。覚醒が極めて遠くに位置付けられており、そこに至るまでに途方もない努力と研鑽の必要が窺い知れます。

 

私もかれこれ10年以上真剣に修行していますが、本当の覚醒を体験したことは一度もありません。垣間見たことは何度もありますし、去年より今の方が成長している実感はあります。しかしそれを覚醒と呼ぶには抵抗があります。眠っていて一瞬夢から覚めても、それは起きたことにはならないのと同じです。布団から出て自由に動き回れるようになってはじめて、「目覚めた」と言えるのではないでしょうか。

 

修行に人生の全てを捧げている行者でさえこれなのですから、世俗で片手間に「覚醒した」あるいは「させる」ということがいかに不適当か、よくわかると思います。

 

なぜ「覚醒」と言いたがるのか

私も一人の平均的な人間ですので、そう言いたくなる気持ちもわかります。自分が人より進歩しており、より多くを見通していると表現するには、目に見えないスピリチュアルの世界で覚醒していると宣言する、もしくはあなたにもそれを授けようというのが早いからです。

 

なんでもそうですが、自分が今、あるいは振り返った特定の場面においてしようとしていることの動機を正確に、そして綿密に調べ上げることは役に立ちます。そして、そこに全ての答えがあるといってもいいかもしれません。というのも、そこに原因があるからです。

 

スピリチュアルに関心を持つ多くの人が、その理由はなんであれ劣等感を抱えている場合が多い(霊的理由からの劣等感もあり、通る道でもある)。そうした潜在的な欠乏感に応える形で「覚醒を手に入れましょう」というタイトルのビジネスが生まれるのではないか、私はそう考えます。

 

しかもここには、共鳴の法則が働いています。なぜなら、与える側にもお客さんと同じ劣等感を持っているからこそ、両者は引かれ合うからです。私個人のまだ十数年の比較的浅い経験ですが、あらゆる関係の形には、この共鳴の法則が働くように思います。

 

本当の覚醒とは

非常に単純明快です。真我に目覚めることです。それは具体的にこういうことだと思います。

・隣人を自分かそれ以上の存在であると本気で見るのが自然な状態。

・善をなすことが自然なことであり、悪を為すことなど想像さえできない状態。

・受け取ることでは何も感じず、与えることでのみ喜びを感じ、「もういつ死んでもいい」と思わず言ってしまうくらいの至福と充足の状態。

 

これは最終的な覚醒の段階(少なくとも肉体次元での)ですが、私たちのレベルでも、覚醒の瞬間というのはたくさんあります。それはどんなに小さくても、自分が神の愛の経路として働いた瞬間のことであり、また、これまで為してきた悪い習慣があったとしたら、それをやめようという気持ちが湧いてきて、それを選び取った時も、ある意味覚醒の瞬間と言えます。

 

私が長い間傾倒して学んだ『奇跡講座(A Course in Miracles)』ではこれを覚醒と呼ばずに「奇跡」と定義していましたが、それは正しいことだと思います。なぜなら、こうした覚醒への前進と覚醒そのものは、ゴールと、そこに至るまでの道のりをはっきり分けて考えることだからです。

 

覚醒とは、自我の消滅です。そして、進化の階段における踊り場の一つです。私たちは人間であり、一歩ずつ前進することの大事さとその感触を噛み締める喜びを感じられる感性を持っています。だから、せめてこのことに気づいている私たちは、毎日真理を実践できる機会を与えられたありがたさと、一歩でも前進できたと感じた時の喜びを、等身大で分かち合おうではありませんか。

 

実際、それで十分ではないでしょうか。愛の表現に大小も高低もありません。それは常に最大限かつ、最適に表現されるものです。神は愛であり、神は完璧だからです。

ライトワークこと始め

真理がすべてであり、私たちの行うべきことは、ただ真理の法に則った生き方をするだけです。

 

私たちは真理、つまりは神の愛だけを求めており、それを自らを通して表現することだけが喜びです。

 

この非常にシンプルな基本原則が、現代ではあまり重視されていないばかりか、スピリチュアルな分野では、言っていることは最もに聞こえるものが多く、確かに間違ったことは言っていなくとも、私からすればどこか我のにおい我するものが目立ちます。

 

中には完全に自我のために語られた霊的テクニックも見受けられ、そこに迷い込んで貴重な人間としての生を浪費しているケースもあり、無念に思います。

 

幸にして私自身は、19歳の頃にはその違和感に気づき、縁もあってちゃんとした霊的王道を歩むことができました。それでも道を継続的に直進することが難しく、離れた時期もありましたが、本物と偽物、もとい本筋と横道の識別で間違ったことは一度もありませんでした。

 

私の使命 ー霊的王道ー

私の使命は、霊的王道を多くの人の人生の基礎として持っていただくことにあります。

 

人々がどんな境遇にあり、どのような種類の仕事をしていたとしても、それらに通底する彼らの霊としての正しいあり方を思い出していただけるよう、促すことが仕事です。

 

そのために、もちろん自らも人生の全てをかけてその道を進み、失敗や挫折、そして復活を繰り返しながら、その階梯を少しづつ登っています。私もみなさんと同じ一人のプレイヤーであり、同じ道を歩む同志です。

 

王道とは、単調である意味刺激のない手法かもしれません。根本的なアプローチほど地味であるというのはどの分野にも言えることです。現に霊的王道とは、ブッダやキリストが過去に説いたシンプルな規定以上のものではありません。霊的に最高の行法は、常に目の前の物質次元において完璧になすことができます。退屈でつまらないと思える「今ここ」で、最も霊的にダイナミックなことができると聞いて、何か魂の奥底で感じるものがある人は、私と多少なりとも縁があり、かつこのブログから得るものがある人だと思います。

 

もちろん、エネルギーや地球をはじめ太陽系など、私たちを取り巻く霊的事情に精通することも重要であり、個人というある種限定された時空間に存在し、その制約の中で決断し行動しなければならない私たちにとって、そのあたりの未科学の分野を把握することは、自分の使命の具体的な側面で非常に役立つに違いありません。なのでその辺りについても、今後積極的に触れていくつもりです。

 

タイトルの意味

「ダルマ100%!!」というタイトルは、好きな芸人のアキラ100%さんからとっています。ちょっとふざけていますが、ちょっとくらい抜けがないと面白くないですし・・・

ただ、真理に忠実にありたいという真摯な願いも含まれていますし、ダルマ(Dharma)には聖なる義務という意味もあります。実は大変真面目な意味が、表の悪ふざけの背後に隠れています。

 

苦しみは自我からのみ生じる

冒頭に太字で強調したことは、苦しみの原因についてのはっきりとした事実の説明にもなっています。すなわち、神の意志を行わないことが私たちの苦しみであり、私たちが何か望んだものを手に入れて尚苦悩するのは、神の愛ではないものを神の愛の代替としているからです。

 

つまり、自我(このブログでは、エゴという表記を同じ意味で使います。)を選択することからのみ苦しみが生じます。これは反対に、神を選択して喜びが生じないことも、苦しみが生じることもあり得ないということです。

 

本質的ライトワーク

人生は複雑です。その中で真理を体得し、それに沿って現象を理解していくことも同じく複雑で時間のかかることです。私一人にできること、達成できることには限度があります。だから私はみなさんと一緒になって、この聖戦に取り組んでいきたいと考えています。個人個人がそれぞれに自分のダルマ(真理・義務)を生き抜いて何かを達成すれば、それは全体にとっての達成でもあり、進化段階の底上げにも貢献することになります。

 

そして達成することは、何も現象として目に見えるものとは限りません。ライトワークの本質は、現象という象徴、つまり結果の世界を通じて、原因に取り組むことにあります。やったらその分お金が手に入るとか、現世的に幸せになるとか、そんなことに拘泥していたり、強調する霊性の教師たちは、本質を甚だしく間違えているように感じます。

 

例えばですが、人には意志→動機→思考→行動という順番で動作がありますが(大まかな説明なので順序については深く突っ込まないでくださいね)、この不可逆的な手続きからしてもわかるように、人が本当に責任を持つべきなのは、行動よりも思考、思考より動機、そして最終的には意志にこそ責任の在処を求めるのが適当であることがわかります。

 

ライトワークの本質はここから学べるように、まさに原因にこそ取り組むことであり、並行して原因に取り組むことへの信頼を育むことでもあります。当然ですが、行動のレベルで何もしないということではありません。それは聡明な読者の皆がわかることです。人には肉体があり、地上で生活する間はそれなりの必要が常にあります。

 

そういった瑣末な物事に関しては全て神が面倒を見てくださる、というのが、どうやら道に人生を捧げた偉大な先人たちの共通認識となっているようです。私も最初の頃は不安でいっぱいになり、実際経済的に困窮したこともありましたが、本当に自分の食べ物の心配をしたことは一度もありませんでした。いつも誰かが助けてくれたり、ぎりぎりで必要な資源が与えられてきました。

 

さあ、これ以上書くと長ったらしくなってしまうのでこの辺で最初のこと始めの記事を締めたいと思います。投稿は今の所不定期ですが、少しでも多くの魂に私の声が届くよう、努力して行きたいと思います。